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ネバーエンディング卒業論文/野村萬斎「国盗人」
2009年 12月 22日 (火) 23:53 | 編集
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「国盗人」 世田谷パブリックシアター(12/12 昼公演)


この前見た「国盗人」を、卒研のつづきのつもりで考える。(ええー!)





わたしの卒業研究は「シェイクスピアの現代化」というものでした。
でも、もともとわたしは大好きな悪役の研究がしたかったので
悪役が登場する「リチャード三世」とか「マクベス」を選びました。

で、今回観たのは、「リチャード三世」を昔の日本に置き換えたもの。
卒論のメインだった四大悲劇のひとつ「マクベス」も、春に野村萬斎主演で上演されます。
これはなんと、現代版なので、まんま、卒業研究にかぶるのです!わくわく。

(うっかり、発売開始から2時間後に電話したら全公演1階席売り切れ。ぎゃふん)

東京でシェイクスピアの劇はしょっちゅうどっかでやってるだろうに
なんで野村萬斎のばかり観るかって、それは、好きだからです。笑




【配役ざっくり】


リチャード三世 → 悪三郎(野村萬斎)

マーガレット(破れた赤薔薇一族の王妃)→政子
エリザベス(白薔薇一族の王妃)    →
アン(リチャードに口説かれてうっかり再婚)→杏
皇太后(リチャード三世の母)           

→ぜんぶ白石加代子が衣装をかえて演じる



【物語のはじまり】

原作は、15世紀イングランド、薔薇戦争のあと。
この作品では、野村萬斎の演出らしく
戦国時代の日本を思わせる時代に置き換えている。

ステージには、奥行きのある能舞台を模したセットが組まれている。

冒頭、客席の通路からパラソルの女(これも白石加代子)がふわりと現れ、

「夏草や兵どもが夢の跡」

とつぶやくと、
舞台は現代から数百年の時をさかのぼり、
その場所でかつて繰り広げられた血の戦いがよみがえる。(で、本編スタート)





ということで以下、いくつか見出しを立ててぽろぽろと考えてみる。
そしてさすがに、折りたたむ。じんじょーじゃない長さやん。。





【もくじ】

1 ひとりで「女」を全部演じると、どうなる
2 わたしたちも共犯
3 影法師の活躍、そして「馬はどうするんだ?」の答え
4 野望の行き着く先とは?
5 でもちょっと分かんないこと 呪いと鬼とロザリオ
6 強引にまとめるっていうか





1 ひとりで「女」を全部演じると、どうなる

この演出で一番際立つのは、
登場する主要な女性をすべて白石加代子がひとりで演じること。
ベースとなる黒いワンピースの上に、それぞれ特徴的な衣装を羽織って
同時期に存在する4人の女を演じ分けている。

これはまず、原作を知らないと混乱をきたす人もいたかと思う。

もちろん演じ分ける力量はあってのことで、衣装も分かりやすく違うんだけど、
白石加代子の顔はやはり印象深いし、ものっっすごい存在感だから、
さっきうっかり口説かれてリチャードと再婚した人が、
今度はエドワードの王妃として玉座にいたりするんだもん!


でもこの演出によって、この物語では
リチャードが野望を叶えるときには、いつも「女」と対峙しなければならなかった
ということが際立つなあと思った。

未亡人アンを夫の遺体の前で口説き落としたり、
娘を差し出せばみんな幸せになれると先王妃エリザベスを懐柔したり、
リチャードの計略の延長戦には、常に鍵となる「女」がいて、
その「女」を知恵と詭弁を駆使して乗り越えなければ、彼の野望は達成できないのだ。


「女」と対峙するときに、悪三郎の発する共通の台詞がある

「共に、幸せな夢を見よう」

女のエゴをくすぐるために選ばれた言葉は、意外にも「夢」なのだった。

この演出では、冒頭の芭蕉の句にはじまり、何度も「夢」がキーワードとして登場し、
さらに「夢」は「呪い」と表裏一体ではあるのだけど。
彼女たちを突き動かすのが「夢」という明るい言葉だったことを考えると
悪三郎に屈したりおびえたりする「女」の存在を、
たんなる愚者としておとしめてはいないのかもなあ、と思う。


2 わたしたちも共犯

この原作の魅力は、悪党の主役・リチャード三世が、
観客に向かって、自分の思いつきや計略を語って聞かせるところにある。
自覚的に悪を犯し、生き生きと振る舞うリチャードに観客は魅了され、
またその悪事の詳細を事前にリチャードの口から知ることになるので、
観客は共犯めいた気分を味わいながら、彼の暗躍を見守るのだ。


戴冠式の前、悪三郎(リチャード)は左大臣(バッキンガム)と共謀し、
一芝居打って王位を固辞し、市民に請われてという形で王の座に座る。

このシーンで、真っ暗だった客電に、少し照明がつく。
そしてホールの客席を埋めた観客たちに、左大臣は語りかける。
つまりわたしたち観客は、広場に集まった市民に見立てられている。

最初、腹心の左大臣が壇上に立ち、悪三郎を讃えよと市民たちをあおるが、
客席に座っている「市民」たちは、どうにもリアクションがにぶい。

左大臣は、市民、つまりわたしたち観客に、
「国王悪三郎、ばんざい!」と、唱和させようと試みるのだが、
そんな、長いせりふ、いきなり、みんなで言えるわけないじゃーん!
という戸惑いが客席にひろがる。そりゃそうだ。
すると、観客のにぶいリアクションがそのままストーリーにはまり、
左大臣は、「誰も言ってくれない!」と焦る。

こうやってわたしたちの拍手やリアクションが、
そのままステージ上の展開とつながっていく。
このインタラクティブな演出で、観客たちはいよいよ舞台に夢中になっていく。

少しずつのせられていく市民たちは、
左大臣の音頭にあわせて、やがて拍手を舞台に送りかえすようになる。
「だって、唱和するのは難しいけど、拍手ならできるし」という気持ちで。
この観客の気持ちまで計算に入れられて、物語は進む。

市民たちは悪三郎が王になることを願って広場から動かない、という下りでは

「てこでも動かぬか!」
「てこでも動きませぬ!」

と、部下がとつじょ舞台セットの手すりをはずして(ながーい棒になった!)、
最前列の椅子の下に差し込んで動かしてみようとまでする。そら、動かんやろ!笑


この後、悪三郎が見事王位につき、前半終了、休憩となる。
まちがいなく前半のクライマックスだった。
確かこの前後に、野村萬斎が狂言の節回しで台詞を喋る見せ場があるのだけど、
わたしは感動して、泣いた。


3 影法師の活躍、そして「馬はどうするんだ?」の答え


1で述べたように、一番特徴的なのは「女はぜんぶ白石加代子」だと思うけど
次に特徴的な点は、悪三郎の「影」を表す、黒子のような存在がいること。
パンフレットによれば、彼は「影法師」という役名を与えられていた。

「影法師」は、悪三郎の手にかかった者たちに「死」を与える役割を担っている。

彼は黒っぽい装束と面をつけて要所要所に現れ、舞台後方で軽やかにねばっこく動き回る。
そして死が近づく者のところへ忍び寄り、その瞬間、かぱ!と白い能面を顔にかぶせるのだ。
まっしろい能面はまさに「死顔」。野村萬斎ならではの演出!

影法師は、強いスポットを浴びる悪三郎の背後の床に伸びて、
そのまま悪三郎の動きを追って「影」を演じることもあった。
そして、もうひとつはずせない活躍がある。


リチャード三世でおそらく最も有名な台詞は

A horse, a horse, my kingdom for a horse
馬だ、馬をくれ!馬と引き換えに王国をくれてやる!


だと思う。クライマックスで追いつめられて逃げられないリチャードが
馬をくれたら自分の国をやる、というものすごい切実なことを言う、あれ。


わたしは観劇中、どう考えても馬なんか出てこなさそうな舞台を眺めながら、
どうやってこのはずせない台詞をキメるのだろうと思っていた。

たとえば、1930年代に置き換えた映画
「リチャード三世」(リチャード・ロンクレイン監督/1995)では、
最後の先頭シーンは戦車とかもガンガン出てくるんだけど、
リチャードが乗ってたやつの車輪かキャタピラが
泥にはまって動けなくなって、「馬を!」となるわけです。うまい。


で、結局「国盗人」ではどうだったかというと、
なんと、影法師が、正面を向いた悪三郎の前で屈んで立ち、疾走する馬を演じたのでした。
悪三郎と影法師の息はぴったりで躍動感があり、まったく違和感がなかった。

こうして馬が討たれ、「馬をくれ!」の台詞が成り立った。すごい。

最後、舞台の中央に倒れた悪三郎が白い面をつけられていたのは言うまでもない。


カーテンコールでは、影法師役のひとが、お面をとって拍手に応えた。
観客はひときわ大きな拍手で「中の人」をねぎらった。
パンフレットによれば、パントマイムの第一人者なのだそうだ。


4 野望の行き着く先とは?

悪三郎の飽くなき野望は、どこへ向かおうとしていたのか。
それは、権力を掌握し思うがままに振る舞うこと、ではなかったのではないか。
醜い外見にコンプレックスを抱えていた彼は、
だからこそ詭弁や計略で意志を実現させてきたことに強い自負をもっていた。
その燃えるような自負にあぶり出されるものは、
やはり、コンプレックスのべっとりはりついた醜い自分という存在なのだ。

細かくはちょっと忘れてしまったのだけど・・・
「今の自分とは違う自分になりたい」というような台詞があった。

今の自分には納得していない。もっと素晴らしい存在になれるはずだ。
そうすれば、もっともっと自分を愛せるはずだ。
この切実な願望こそが、究極の野望だったのではないか。
そして、この願望は、組織や権力の頂点を目指す人でなくても、
誰もが持ちうる普遍的なものだと言えないだろうか。

また、権力を奪取したあとの悪三郎は、孤独にさいなまれることになる。

「選ばれて在ることの、恍惚と、不安よ」

国も女も手に入れて、自分たちにはできないことを次々に成し遂げるヒーローが、
今では裏切りや恨みにおびえ、たったひとり夜の床でふるえている。
独裁者の夢を共に追いかけてきた観客たちは、
そんな孤独な姿にシンパシーを寄せずにはいられない。
やっぱり、リチャード三世というキャラクターは最強だと、改めて思った。


5 でもちょっと分かんないこと 呪いと鬼とロザリオ


でも、分かんないところもちょっとあった。

先の戦いで破れ、強い恨みを抱えている赤薔薇一族の王妃・マーガレット。
彼女は、「政子」という名前で登場する。

原作にもマーガレットの「呪い」(誰がどんな風に死ぬとかそういう予言)は
登場するのだけど、
ここでは、政子の「呪い」がより前面に押し出される。

能舞台を模した舞台では、「呪い」の表現ははまりまくっていて、
お芝居の中に強い影響を与えている。

たくさんの人物が「政子の呪いじゃー」とか言いながら死んでいく。
「呪い」の強調は、劇中で次々に起こる死に説得力をもたせるため・・・なのか。


もともとマーガレットはキリスト教的な魔女としての役を負っているのだろうか。
原作はキリスト教の影響下にある物語なので、
マーガレットに魔女としての性格を与えられているならば、
どんなに不思議な出来事が起こっても、
神と対峙する存在だから、ということで理屈が通る、らしい(すごいよね)。
だから、呪いだって魔女の特別な力があるから実現する、説明がつく。

ところがこの演出では、政子の「呪い」は、鬼や物の怪がからんだものではなく
とりあえず超強い恨み!って感じで描かれていた。
次々と起こる死の説得力を増すために「呪い」を強調したのだとすると、
じゃあ呪いを実現させてしまう政子が持っている力はなんなのか、逆に気になってしまう。

その結果、次々に成就されてしまう政子の呪いも、
「天罰」めいたものというより、私怨が極まった形となり、少し弱いような気がする。


さらに別の言葉。
「呪い」とは別に、幾度となく「鬼」というキーワードが登場した。
日本的な舞台に置き換えられていたため、当然の流れではある。
ここでの「鬼」は、残忍きわまりない主人公・悪三郎を指すものだ。
しかしこの「鬼」というキーワードには、次々実現してしまう「呪い」とは違って
単なる恐れ、蔑みの言葉であり、神懸かり的なニュアンスはない。


最後に、細かいことではあるけど、中盤から登場する幼い王子は、
留学先から帰ってくるシーンで、なぜか首からロザリオをぶら下げていた。
そ、そこにキリスト教的なモチーフを入れますか!?
ロザリオに深い意味がなかったとすると、やはり気になる。


「呪い」「鬼」「ロザリオ」。
日本的な鬼とか呪いとかと、キリスト教的な考え方が、
整理されないまま同時に出てきて、ごっちゃになってしまってる気はする。
さすがに考えすぎだと思うけど、ちょっとすっきりしない(先生に聞いてみたい。)


6 強引にまとめるっていうか


これまでこまかい演出にごちゃごちゃ注目したけど、
このお芝居は、
主演俳優が、リチャード三世というキャラクターをどれだけ魅力的に演じきれるか、
そこにすべてがかかっていると思う。

その点で、タイトルロールの野村萬斎は、完璧だったと思う。
ローレンス・オリヴィエとかよりも全然、よかった!

頭が冴えて冗談好きな、生気に充ちた悪党は、
誰よりも未来を信じてパワフルに舞台を駆けめぐり、観客の心をつかみ続けていた。


ということで、
それだけで十分、見たかいがあった!という舞台でした。
「マクベス」も、たのしみです。やっぱり野村萬斎はすてきだ!!

こんだけ考えて、オチはそれかい!





全然関係ないけど、さいきん気になる英単語

commit, attract, strategy

これってどれも悪役に関係あるよね。
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