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死があるから生がある/舞台における小林賢太郎について
2010年 04月 11日 (日) 03:40 | 編集
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2010.2/20 小林賢太郎ソロ公演「spot」 @横浜ブリッツ(昼公演)




小林賢太郎は、ラーメンズの、もじゃっとしてないほうの人です。
そのひとのソロ公演を、2月に観ました。

あと、過去の公演「potsunen」と「maru」をその前にDVDで観たので、
まとめてみようと思います。だいぶ時間がたったので、かなりくるしいが。

出典協力:Jみー(DVD貸してもらって、チケットもとってもらいました!)





1 身体表現に対するこだわり

2 こまかい隙をみせる

3 結末に見られる、死の暗示について

4 まとめ:信じられるということ、そして舞台でしかできないこと




1 身体表現に対するこだわり


舞台でのお芝居は、もちろん身体表現なので、あたりまえすぎるかもしれないけど、
それでも彼の舞台には身体性について特筆すべき点が多い。
以下、いくつかの例。ちょっとばらばらするけど。


小林賢太郎には、パントマイムやマジックの心得がある。
だから、舞台におけるその所作、とりわけ手の動きの美しさには、目をみはるものがある。

なめらかな手の動きが生かされている演目が、「アナグラムの穴」と「ハンドマイム」。


ハンドマイムは、パントマイムとかけたネーミングで、
チョキをつくって下に向け、人差し指と中指を動かしてとことこ歩かせる、
みんな1回はやったことがあるかもしれない、あれ。

この指をスクリーンに投影される背景(マリオみたいに、横に流れる)にあわせて、
いろんな冒険をさせるのである。
指をとことこ歩かせるこの動きは、誰でも思いつくかもしれないけど、
優雅な動きとユーモアでコンテンツとして昇華させたのは、小林賢太郎ならではだと思う。


何もない舞台に効果音だけが鳴り、シュールな物語が進行するパントマイムも、
彼の大いに得意とするプログラム。

床を歩いていると、とつぜん足音が変わる。ドアを開けると、世界が変わる。
パントマイムと不思議な音だけで、観客は彼がどんな状況にあるのか理解する。

さいしょは、裏方さんと完全に息を合わせて音を鳴らしてもらってるのか?
と思ったけど・・・・違う気がする。
おそらくストーリーに沿った効果音を配置し、音のトラックを用意したのではなかろうか。
彼はきっと、自分の能力、むしろ自分の積み上げた練習量を信頼するタイプだ。
だから、効果音のトラックに合わせて、何度も何度も練習したのではないかと思う。
(もし違ったら、とても申し訳ない。)


最新の「spot」では、椅子に座った状態ではあるけれど、
扇子と手ぬぐいをつかった伝統的な落語スタイルの小ばなしを披露した。

落語では、扇子と手ぬぐいだけをうまく使って、どんなシチュエーションでも表現する。
どういうことか、有名な例で説明すると、
閉じた扇子を箸のように持ち、ずるるっと、すすり上げるようなジェスチャーをすれば…
観客は、お蕎麦を食べてるって分かるようになっているのだ。

もちろん、扇子と手ぬぐいだけで、違うことしてるって分かってもらうには、
噺家はうんと修行を積んで、熟練の芸を身につけなければならない。

舞台でつかわれる道具やセットは、芝居の説明として用いられるものだ。
それを大幅にカットして、身ぶり手ぶりのみで物語を伝達する落語への挑戦には、
小林賢太郎の、身体表現の追求における強い意欲を感じる。



2 こまかい隙をみせる


「アナグラムの穴」は、トランプのようなカードを卓上に並べて
既存の言葉(ことわざなど)のアナグラムを作り、さらに手描きの絵でかぶせる
という、言葉あそびで笑わせるショートコント系の演目。
細かい芝居なので、テーブル真上と、小林賢太郎の手前にカメラがあり、
それをでかく投影した正面スクリーンで楽しむ。

これ、アナグラム故に、どうしてもギャグに無理があるときがあり、
彼はそういうとき、自分で「ないわー」という表情をして、笑いをとる。


こういうパントマイム系のプログラムには台詞がないけれど、
彼が舞台でしゃべるときは、たいてい何らかの役柄を帯びている。

今回の「spot」では、「王様」の役でしゃべる一人芝居があったのだけど、
わたしが観た横浜公演(昼)では、この芝居の途中で(おそらくちょっともたついた時)

「え~、こんな風にぐだぐだやってるんですけどもー」

という一言があり、このときは間違いなく、「王様」ではなく「小林賢太郎」だった。

彼は舞台上に細かい隙をつくって、観客を置いてけぼりにしないのだ。


天才っぽい存在に接して、そのひとを好きだと思ったときに、
わたしたちはうっとりすると同時に、手の届かない、別世界の存在だとも感じてしまう。

小林賢太郎のフォロワーも、彼の卓抜した能力に心酔している人が多いと思う。
圧倒するだけなら簡単だ。でも彼はそれをせず、親しみやすさの演出を忘れない。


「すごい」のに「お茶目」。「天才」なのに「人間くさい」。

これ、コンテンツをつくる人が愛される上では、鉄板。


過去の公演のDVDでは、「アナグラムの穴」で、
彼はカードを並べるときに、めずらしく小さなミスをしていた。
「しまった!」という表情に、観客は喜んで手をたたき、異様な盛り上がりを見せた。

複数回の公演がある中で、撮影をしていたのは、この1回だけだったのだろうか。
あとあとまで残るDVDには、完璧だったときの模様を収録してもいいと思うのだけど、
あえてこのミスを入れたのも、親しみの演出なの1つなのだと思う。



3 結末に見られる、死の暗示について


いきなり物騒な見出しで恐縮。

ここはシンプルにいきます!

わたしが観た演目の、ラスト、ないしはラストから2番目にあたるプログラム


「potsunen」伏線の回収として「悪魔」が登場し、両手から鮮やかな炎が燃え上がる。

「maru」孤独な絵描きが、最後に行きついた雪の降る公園で、幸せそうに眠ってしまう。

「spot」落とし穴を掘っていた主人公が、出られなくなって、穴の底で眠りにつく。


「potsunen」の悪魔と「maru」の絵描きはラストで、「spot」はラストから2つ目。
だから「spot」のときもこれで終わりかと思ったら、
「王様」がもう一度登場して伏線を回収していった。笑

(小林賢太郎の、伏線の回収に対する執念は、ものすごいという他ない。)


「potsunen」に登場する悪魔は、それまでのすべてを知っていた人知を超えた存在だ。
黒々とした翼をのばし、燃え立つ炎を両手の中に。その佇まいは、死神を彷彿させる。

また「maru」の絵描きや、「spot」の「うるうびと」が、
雪の降りしきる真冬の公園や、戻ることのできない深い穴の底で眠りについたら、
普通どうなるか。それは言わずもがなだろう。


幕が下りたときに感じる、何とも言えない余韻と、身震い。
「悪魔」や「眠り」という象徴的なモチーフは、「死」の暗示に他ならない。

舞台の終盤で、ふっと切なくなるような「死」に触れることで、
かえって深く印象に刻まれるのは、それまで目の前で躍動していた人間の「生」だ。

彼は、「死」を暗示することによって、逆説的に「生」を提示をしているのだ。



4 まとめ:信じられるということ、そして舞台でしかできないこと



少し舞台から離れて、映像の話。

ここ10年でわたしたちがよく使うようになったセリフに

「どうせCGでしょ」

というものがある。

最初からCGだという情報があるものでなければ、
どんなに美しい情景も、衝撃的なアクションも、
それがCGだと後から知ったとき、わたしたちは過剰にがっかりする傾向がある。


それに対し、手描きにこだわった「ポニョ」や
コマ撮りのアニメーションが多くの人を魅了したように、
いま、わたしたちは「そういうもの」に引き付けられる傾向にある。

「やっぱアナログっていいよね~、ぬくもりとか暖かみがあって。」
という意見はよく聞く。でも、本当にそれだけだろうか。

わたしは、
「アナログ=ぬくもり」という図式は、答えとしてはいささか安易だと思う。

小林賢太郎の「ハンドマイム」の背景は、1枚ずつ画用紙に手描きしたものを、
わざと四角い紙の形を残して、がたがたに継ぎ足して描かれている。

それは「ぬくもり」とか「暖かみ」を表現したいからではなく、
よく見る画用紙に、普通のペンで手描きされた背景画というものが、
観客にとって「信じられる」存在だからだとわたしは思う。

「ぬくもり」のためなどではなく、「信じられる」存在であるために。
小林賢太郎の舞台におけるアナログは、そのために取り入れられて、
自身のクールな世界観を一切削ぐことなく機能しているのだ。


「spot」の舞台では、
「ハンドマイム」で投影用のカメラを自分で運んできてセットするなど、
これは今わたしが自分の手でやってるんですよ~、ということを強調する
新しい演出がいくつかみられた。それはもう、しつこいくらい。笑

「ハンドマイム」の背景にしろ、カメラをわざわざ自分で運ぶことにしろ、
そんなちまちましたことをせずに、もっと完璧に別世界を作り出し、
没入感を与えることも、彼には十分可能なはずだ。でもあえて、彼はそれをしない。


舞台上で起こる出来事のライブ性を強調し、素のじぶんをぽろっとのぞかせる。
そんな演出の積み重ねによって観客は、目の前にいる小林賢太郎を、
よくできた幻影などではなく、血の通った生身の人間だと信じることができるのだ。


観客と共有しているこの瞬間は、二度と訪れない奇跡だと伝える。
そして、あくまでも、いつかは死を迎える生身の人間として振る舞う。

小林賢太郎が舞台で表現したいのは、「死」と対をなす「生」の一回生なのだ。


舞台でしかできない、「生」の一回生の提示。
それこそが、あらゆるジャンルで才能を発揮しながらも、
彼が舞台にこだわりつづける理由にほかならない。




おつきあいくださって、どうもありがとう。


東京の会社でで仲良かった先輩に
「ラーメンズが好きな女子はあんまり好きじゃない」
って言われたことがあるのですが、
3時間かけてこういうことを書いたりすると、たぶん、モテないんだと思います。
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