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雪に送る
2011年 03月 06日 (日) 04:52 | 編集
2009_2010winter_0006.jpg
夏油高原(げとうこうげん)というところ。
おばあちゃんちから車で30分のスキー場。
Nikon EM / Nikkor 50mm F1.8


従兄は週末、スキーのインストラクターをしている。
たくましくて、雪焼けしている。そして祖父母と暮らしている。

従弟はハタチだ。千葉の従姉の家にいそうろうして、
バイトをしながらジャズピアノの勉強をしている。





1月のあたま、雪のふる町のちいさなマンションに、
大切なひとたちが集まったことを書いておく。




わたしはライターさんにお願いして取材を代わってもらい、ネットで格安航空券を探した。
いつも東京へ行くときは旅割で合計3万円ちょいで飛んでいたので、
直前予約の値段の高さに、くらくらした。



5時台、まっくらな中、母に見送られてタクシーに乗る。
弟がセンター試験前で動けなかったので母も残ったのだ。
父は前日に北上に着いていた。
妹はわたしとほぼ同じに東京を出るから、先に着くはずだ。

離れているせいかもしれないけれど、母と義父母の関係はよかったように思う。
だから行けないことには特別のつらさがある。
出発前日の夜、母が甘く焼いてくれた卵焼きを食べながら、2人でぽつぽつと話をした。

駅のホームで反対側に白く光るものを見つけて、なんだろうと思ったら月だった。



急いでいたのには訳があって、
うちの田舎は葬儀と火葬のじゅんばんが逆なのだ。

飛行機や新幹線で7時間の行程。
すべての乗り換えがうまくいけば、儀式がはじまる直前くらいに着くはずだった。
飛行機の遅延で一発アウト。
定刻到着でも、モノレールの発車まで15分、その後東京駅の乗り換えに10分。

始発の飛行機は遅れずに着いた。
動く歩道を無視して、キャリーを引いて全力疾走した。
東京駅のみどりの窓口には、ものすごく手慣れたお兄さんにあたった。親切で、速かった。
タッチパネルを叩く少し大仰であざやかな手つきに、どれだけ励まされたか分からない。
「次のやまびこは、23番線から40分の発車です」



駅に着いてからの時間がないので、最初から喪服を着ていた。
でも普段の服装用にブーツだった。座席で、黒いパンプスに履き替える。
このやまびこに間に合っただけでも奇跡だ。窓から、きらきらと富士山が見えた。



窓の外はほんとうに、すこしずつ雪深くなってくる。
静かな駅前に降りると、その白さに息をのんだ。

タクシーに乗ると、斎場からのバスが2台先に見えた。
父と妹に連絡がとれた。



そうして、お別れが間に合った。
キャリーを引き、息を切らして火葬場の入り口に立つと
「間に合ったね」「かなこ、間に合った」と
かなしそうにうれしそうに迎えられた。



翌日、東京から従弟も来た。
もともとこの週末が成人式で、2年ぶりに帰省する予定だった。

そして彼の言葉が、ものすごく重要なことを、明らかにすることになる。
祖母が数十分の買い物から帰宅すると、
歌番組を見ていた祖父は、ソファに座ったまま眠るように亡くなっていた。
肺の病気で酸素チューブをつけていたけれど、特に不具合があったようでもなく、
ほんとうに、くるしんだわけではないようだった。

しかし、祖父とさいごに話したのは、祖母ではなかった。
叔父や叔母、わたしたちは静かに、熱心に、従弟の話に耳を傾けた。

「5日の午後、成人式のことを伝えようと思って電話したら、
 めずらしくおじいちゃんが出たんだ」

ふだんは必ず祖母が出ていた。だから、その日の祖母の買い物中ということになる。

「来週成人式だから帰るねって言ったら、よろこんでたよ。
 声にも張りがあって、元気そうだったんだ」

祖母が帰宅したのは16:15頃だったという。

従弟の携帯に残っていた発信履歴は15:56だった。





従弟の父、祖父にとっては長男である叔父は、数年前に亡くなっていた。
その末っ子である従弟の、成人式の知らせ。きっと、安心したのだろう、と。

孫との電話を終えた祖父は、何というか、ほんとうに「すうっと」亡くなったのだ。

祖父の抱えていた肺の病気は、末期まで進行すると、
ものすごく苦しんで亡くなることになるのだと聞いた。
とつぜんの別れは信じられなかったけれど、
もし永らえたとしても、もしかしたら、もっと…という思いが胸をかすめる。

わたしたちは、何か、「よかったんだ」というふしぎな納得のもと心をあわせていた。





本葬の前日は、父や叔父、伯母は斎場に詰めっぱなしでとても忙しかった。

わたしは、妹と従弟と一緒に、おばあちゃんと過ごした。

こたつを4人で囲み、お茶を入れて、お菓子を食べる。
孫3人はなんとなく高校サッカーを見て、
「あのこ眉毛ほそい」とかどうでもいいおしゃべり。
おばあちゃんは、喪服のしつけ糸を取った。
わたしも途中から、叔母の喪服のしつけ糸をとった。

「じいちゃんが居ないの、忘れそうだなぁ」

祖父の使っていた酸素の機械は、あるじを失って静かだった。
とうめいなチューブが、誰にもつながれずに、床にやわらかく垂れていた。

岩手日報には、おじいちゃんの訃報記事が出ていた。





従弟は県立の進学校に通っていたけど、
父親を亡くすなど、さまざまな事情で大学に行けなかった。

でも、近くの大学のジャズ研究会に所属し、ピアノをやっている。

わたしのiPhoneのFinger Pianoを気に入って、楽しそうに弾きたくる従弟。
リクエストしたら、「枯葉」を弾いてくれた。





妹とふたり、雪の国道をよたよたと歩くと、「ぐぁー」という太い鳴き声が聞こえる。
見上げれば、真っ白な白鳥が北上川の上を横切っていくのだった。





気が遠くなるくらい遠くにいる。





従弟は同級生の集まりに出かけ、わたしと妹とおばあちゃんと、夕飯を作った。
斎場から離れられないというメンバーのために、
おにぎりを握り、重箱におかずや漬け物を詰め、ジップロックにみそ汁をついだ。

こういうときのご飯がどれだけ大事か、今回、ほんとうによくわかった。





夜中に帰ってきた父と伯母からから、頼まれごとをされた。
孫を代表しての「お別れの言葉」だった。
もともとは、斎場に残っている叔父のリクエスト。
仕事関係者の弔辞が続き、その印象だけで終わらせたくないと。





夜中の3時を過ぎてもまとまらず、
翌朝の本葬の、会場に着いてから控え室で書いた。
A4のコピー用紙に縦書きで。ボールペンでぐりぐり消したり書いたりして推敲。





「○○の設立時には20億円もの支援をいただき」
「組合長時代にはたくさんのご指導を…」


4人にも及ぶ弔辞を聞きながら、本当にありがたいことだと思ったけれど、
わたしは叔父の意図を完全に理解した。叔父ちゃん、まかせとって!

わたしにとって、どれだけかっこいい祖父であったかを、
離れていてもどれだけ愛情をもらったかを、
具体的に、じぶんの言葉で伝えるのだ。


名前をよばれて、もそもそと祭壇の前に出る。

手紙の形式をとったが、書き出しはくだけて「おじいちゃんへ」。

しかし遺影を見上げ、マイクに向かってそう読み上げたとき、

あ、やばい。と思ってそこから10秒くらい黙ってしまった。





ちゃんと読んだ。

結果的に、かたい空気は少しでも変わった…と、思う。





降りしきる雪の中、遺影を抱いて立つ礼服の背中。

父に雪が似合うことをはじめて知った。

やっと感覚的に、父がこの土地で育ったことを理解した。





「精進落とし」の会食で、3家族のいとこ同士でおしゃべりした。
高校生、中学生のいとこ姉妹はとっても仲良しで、かわいい。とっても好ましい。

受験生の従妹は、「浪人って辛い?」と真剣にわたしに尋ねた。

一人暮らしを目指している従弟は、
わたしと妹からの成人祝(ちょこっとだけ)を受け取って
「ありがとう、しょうじき、たすかる!」と言った。
恐縮とかされなくて、よろこんでもらえて、とてもうれしかった。

彼は、なんというか、珠玉の「ありがとう」を言える子。
前の日、お茶のおかわりを注いだときから思っていた。

(ほんとは、電子ピアノ買ってあげたいよ)

彼は若いうちから早すぎる苦労をして、あーっというまに大人になってしまった。
でも、くさったりいじけたり全然しないで、二十代の入り口に立った今、
つよくしなやかに、独特のたたずまいを得ていると思う。

「俺の生涯目標は、大卒のヤツの年収をぶっちぎることだから」

と、さっぱりと笑う。





わたしと妹は、夕方早くに東京に戻ることにしていた。

従兄が、駅まで送ってくれた。
成人式をパスして葬儀に出た従弟も、同窓会のある駅前のホテルへ一緒に向かう。

従兄は最近、プリウスに乗り換えた。おそろしく似合っていた。
にいちゃん、と呼びかけることのできる唯一の存在。
事情でマンションに移り住んだ祖父母を支え、一緒に暮らしていた。
これからは、祖母と暮らす。葬儀までの間、こまやかな準備や気遣いをひたすら続けた。
ハンドルを握る頼もしい後ろ姿を、拝みたくなる。


きょうだいに見送られて、妹と新幹線に乗る。





離れて暮らすわたしたちにとって、
よく似た人々と会えたということが、どれだけ励ましになっただろう。
それぞれに、祖父の血を引くひとたちだ。

結局、非常時にしか集まれないのだ。
おばあちゃんは、

「誰かが犠牲にならねばねんだー」

と言った。


帰ってしばらくして、伯母からメールをもらった。

「1月の冷え込んだ雪の降る日は、この1週間のことを毎年思い出すと思います」





2ヶ月もたった今は、かなしいっていうのはカットして書いた。

しかし、
かなしみが時とともに流れていくとしても、
大人になってもあまるほどに貰った愛情のたしかさと、
こんなに大切なひとたちとじぶんを繋いでくれた祖父への感謝は、
心に深く根を下ろし、えいえんに薄れることはないのだ。

離れて育ったなんて関係ない。
わたしは本当に、心から愛してもらった。





ときどき載る歌を、祖父は「たいしたもんだじゃ」と言ってくれていた。

知り合いにも時々見せていたそうで、弔問のお客さんからちらほら声をかけられた。
病気で外出できない祖父が楽しみにしてくれていなかったら、投稿は続かなかったと思う。
作品よりも、祖父と同じ名字、祖父がつけてくれた名前を見つけてもらいたかった。


日曜の新聞は、いまも祖母が見てくれている。


先週、雪の日の歌が載った。


雲の上にも新聞は届くと思っている。
Comment
この記事へのコメント
私もおじいちゃんのお葬式で手紙読みました。
私も離れて暮らしてたんで、おじいちゃんとの思い出はあんまりなかったんですけど、読むと涙が出てきました。
不思議ですね…。
うちのおじいちゃんは癌で苦しみながら亡くなったので、
突然亡くなったのは悲しいですけど、
苦しまなくてよかったのかもしれないですね。

お悔やみ申しあげます。
2011/ 03/ 10 (木) 18: 33: 06 | URL | miri # -[ 編集 ]
みりちゃん、ありがとう!
とても遅くなってごめんね。

読むの、泣かないようにしようとがんばるあまり、
すごい低い声でぶっきらぼうに聞こえてしまったかもしれないぜ。。

あのあと地震があって、長いこと停電があったから、
酸素の機械を24時間つかっていた祖父が生きていたら
まじでやばかったんじゃないかと思うんだー
「よかった」と思うのは生きている人の気休めなんだけど
ほんとによかったのかもって今思ってます

遅くなったけど、とっても、ありがとう。
2011/ 04/ 10 (日) 23: 50: 35 | URL | ばかなこ # -[ 編集 ]
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